あれから色々あーじゃこーじゃと文章を綴っては何度も消してみたけど、どうしてもうまいこと綴れない。結果、この気持ちの正体がいったいなんなのか、良く分からない。終わったのか始まったのか終わらなかったのか、嬉しいのか悲しいのか寂しいのか、なんなのか良く分からない。三年。まだ三年。もう三年?三年で何が出来たんだろう。三年で何が変わったんだろう。ホントに三年経った?ひょっとして明日もまた「おはよう」って会えるんじゃないの?踊り場に死神が呼びに来て、わたしはまたあぐらをかいて、チッチッチと舌打ちしながら「150回練習しろ」って言うんじゃないの?「考えたって出来んもんは出来ん。感じろ!」って吠えるんじゃないの?
しばらく誰かが稽古場に居なかったとき、久々に会えば「おかえり」って言う。人手が足りなかった時、演出家自らがフロアに立つ。知らない間にMysticがこっそり振付を踊ってる。出るシーンじゃないのに全員が立ち稽古に参加する。わたしも。創っては壊し、創っては壊し、違ーーーーう!と一喝し、また壊す。
ぽくないね、ぽくないね、と言いながら何度もBoxを登り降りし、そもそもぽいってナニよ、とボヤきつつしっくりくるまでそれを繰り返す。どんなにフィットしなくてもへっちゃらだ。私は解決するまでいくらでも何年でも何十年でも待てる。但し、延長料金は高く見積もるのが里美流。振りを渡しておきながら、あとは好きにやってと放置。出会ってから三年、ほぼ放置。いつもそれをあとで見て手を叩いて大爆笑し、最終的にドロ饅頭の投げ方をレクチャーする。人見知り指数はきっと五分五分やよ?"一緒に踊るあるある"。鏡越しに振付しててなんとなく同じ波動が動いてるのを「感じる」。同じ空気、近い周波数。そして気が付いたらフラフラ~といつも隣に行って一緒に踊ってしまう。いつも。オイオイ、邪魔だろ、アタシ。けど仕方ない。私をそうさせる、輩。ツーとカー。結構ピリついたダメ出しのあと、一番デカイ声で「ハイ!」と返事したにも関わらず、「あ゛ぁ゛っ?」と何故かキレられ、振付師から振りも渡されず「わたしならそうやらない」と放置。そしてたった一言「攻めろ」。そして放置。いつだって、ガチ。
「あっ、それ、採用っ」。他はぜんぜんダメだけど。振りを作っているとき、鏡もない所で一緒に踊ったら呼吸がハマってニンマリする。長年培ってきた波長ってやつ。阿と吽。そこは高層マンションの最上階。ナイトガウンで勝負は決まる。「ビームを出せ」。「了解」。
ほとんど振付してないはずなのに、カチャリとハマる振る舞いを見せ付ける輩。だから一言「ニオイを振り撒け」。「了解」。「喰いに、行って来て」。「了解」。
所作ひとつこだわり抜いて、抜いた挙句の所作ひとつ。所作ひとつ。こだわり。それが、こだわり。ひとつ。ひとつ。
目線の先に何が見えるのか教えて。今何を思ったの?指の先には何があるの?ただ踊るだけなら必要ない。私は絶対に諦めないと決めた。
空白を埋める。一拍の意味を問う。一反木綿とエルメスのスカーフ、そしてソフトクリームの違いを問う。納得いかなければたとえ本番の一時間前であろうと修正し疑問をぶつける。出来る出来ないなんて、そんなの知らない。存在の意味を問い、言葉を感じ、音楽を感じ、光を感じ、両手を広げてただスタジオの天井を見上げる。
すべて任せるよ、きっとあなたにしか出来ないし、あなたならやってくれると信じてるから。
わたしは普通だと思ってた。別に特別なことをした覚えもない。自分にとっては当たり前。目的を遂行するために、任務を全うしたに過ぎない。誰かに言われたんだ。さとみさん、めっちゃSLAZY好きやん。え。なんのこと?なんのこと?好きだからじゃない、当たり前のことをやってるだけだから。やめろやめろやめろ。当たり前だ。やるのは当たり前なんだ。わからない、なぜこうなったのかわからない。楽しかったんだ。三浦氏と、一喜一憂しながらくだらないことを妄想して世界を作り上げていくことが。本当に。舞台において振付なんて、踊りなんて本当は無くたっていい。照明や音や美術のように、絶対に必要なものじゃない。だからこそ仕事を全うするにおいて、私は私なりのポリシーを持っている。もしかしてこのことが、演者には本当に迷惑極まりなかったかもしれない。踊るという行動を越えて、何度も何度も演者を迷わせてしまった。心の中で、彼らにここまで求める必要があるのかという不安と格闘しながら、けどそうやって疑問に思ってしまった時はやっぱり演者である彼らと向き合うしかなくて、そうするとやっぱり彼らもまた全身でぶつかってきて、だから、自分を信じて、彼らを信じて、もしかして愚行かもしれない生み出し創るという行為と踊るという行為が、観てくれる人の所へ届く最強で最高な瞬間を信じて、、シンプルに、これしかなかった。これが最良の選択と信じて疑わなかった。そうしたらCLUB SLAZYが出来上がった。そして、オリジナルという自由と恐怖を同時に手にしながら、私たちは「信頼」という目に見えない糸を見つけた。
CLUB SLAZY。それは、ここにいる人間一人一人の物語。LAZY、NJ、Mystic、彼らもまた「演者」という皮を脱げば一人の人間。彼らじゃなければ、このCLUB SLAZYは開店存続出来なかった。今までの誰一人として代わりは居ない。絶対に。好きだからじゃない。愛だけじゃない。だって、消えてなくなる言葉で終わらすことなんて出来ない。違う、もっと動物的本能で生きていたいんだ。獲物を捕らえた鋭い眼球、満腹でリラックスした表情、人間本来の思考、触覚、嗅覚、わたしはそうやって会話することしか出来ない。みんな、ごめん。ほんとうに。。。
SLAZYに出たいって、演出家に懇願した。でも爆笑して終わった。そりゃそうよ、あたしオンナだもの。エントリーすら出来ない。私がSLAZYに出たい理由は、踊りたいからじゃない。この、奇妙で馬鹿げてて浅く見えて実は深い純文学のような哲学のような物語の中で、もっともっと彼らと戦いたいからだ。もっともっと彼らとぶつかりたいからだ。舞台という狭く限られた箱の中(檻の中?)で、もっともっと彼らと会話して転げ回りたい。3分本気で踊るって事がどんだけ、どんだけしんどいか、1分呼吸のみでそこに存在するって事がどんだけ過酷か、人の前に立つって事がどんだけ恐怖か知っているから、だからこそ踊る私が伝えられるメッセージ、彼らから伝わるメッセージを、もっともっともっと感じたい。そう思えることが、そういう相手や仲間や作品と出会える事が、この短い舞台人生の中でどれだけ希有なことか、重箱の隅のまた隅をつついて来た私にとっては強烈に身に染みるのだ。
この仕事を数々やらせて頂いておきながら公言するのはどうかと思うけど、私は決して優れた振付師なんかじゃない。良き指導者でもない。すると私は一体何者か?イコール踊りってナンダ?に辿り着いちゃうわけだけどそれは今は置いといて、最近思うのは結果、私は舞台が好きだってことだ。人間ていう生き物が放つものをダイレクトに感じれるその空間。創る過程も本番も。舞台の中も、客席も。人にしか出来ないこと。創って、論じて、演じて、踊って、観て、魅せて、感じて、だから共感が生まれて、だから個が生まれる。好きも嫌いも。そういった営み全てが私にとって舞台であり、振付であり、そして踊るという事かもしれない。(まだ道中半ばで断言はしたくないので、今は「かもしれない」としておく。)
CLUB SLAZY。三年前この本が産声を上げた時、きっと私も同時にこの物語の中に生まれた。育て、育てられ、時にど突き合いながら、明日の歩みも分からないまま、ひたすら手探りでヨチヨチ歩いてきた。気が付いたら、たくさんの386に支えられ、勝手に私の魂はみんなと共に舞台に居た。揺れる身体は止められなかった。大千秋楽にようやく気が付いた。そして共に舞台にあることを受け入れてくれたのは、みんなだった。ほんとうに、ほんとうに、ありがとう。最後に客席から見た光景、、台詞も言わず、踊りもせず、スンと...著しくスンと...ただそこに存在するみんなの姿。そして確かな386の存在。舞い降りた羽根。なんなんだこれは...?! こんちくしょうめ、思い出すだけで目から鼻水が垂れてきやがる...いかんいかん。ダラダラと超絶長い文章になってしまった。饒舌に語るほどカッコ悪いものはないと分かっていながら、でもまだまだ書き足りない。そう、我らMysticのことを。。でもね、私らMysticは表に出ないからこそミステリアスであり、ほんとはショーになんかキョーミが無い。ウラでコチョコチョと話をしながら足跡を消して、今日も彼奴等がステージで失態を犯したら、肩をすぼめてヒャッヒャと笑ってやるんだ。またQさんに怒られっぞ、、っつってな。
さ。これで思いの丈はぶちまけた。2017年正月早々急性胃腸炎になり、やることなくてひたすら菌と戦いながら書いた、いちMysticの戯言と思って許して下さい。結局、いつも何かと戦ってる性分のようです。シリーズ合わせて6作品、LIVEが2本、そして昨年末のSPECIAL LIVEという本当に天晴れでとびきりなグランドファイナル、計9本。三年間本当にありがとうございました。CLUB SLAZYは今日も満員御礼。きっとどこかで、素敵な貴女の心を癒している事でしょう。それでは最後にひとこと、言わせて頂きます。もちろん「サヨナラ」なんて言いません。この、どこまでもクレイジーでクソ真面目で浅く見えて実は深い純文学のような哲学を奏でるCLUB SLAZYを誰よりも愛しているのは・・・・この私だッ!!!(かおりちゃんの次に。。。。。)笑ご清聴ありがとうございました。またのご来店、お待ちしております!
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